ナラティヴ・カフェ Narrative Cafe

Diabetes Cafe:糖尿病診療におけるナラティヴ・アプローチ

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「病いの当事者が良い物語を語るために大切なこと」(No3)

3月 19th, 2015 · No Comments · ナラティヴ・アプローチ(病いの語り、意味), 医療人類学(病い体験、illness)

Key sentence:のちに振り返るという形でしか、私たちは「本当に起こったこと」が何であるのかを理解できない。

以下、鈴木智之著:病いの「経験」とその「語り」(N:ナラティヴとケア、No6、p21)から引用します。
【本文からの引用】
出来事に遅れて、これを振り返って語ることー「ナラティヴな反省」ーが「自己理解」の基本的な形式である。そしてもちろん、この事後的な語りにはさまざまな「バイアス」がかかりうる。後知恵的なバイアスが実際にあること、それは悪質な歴史という結果をもたらす可能性があることに疑いはない。悪質な歴史とは、ある出来事に欺瞞的な意味や重要性を与えるように過去を描くことである(*後知恵 hindsight:Freemanは語りにおける言葉の後れに着目し、その基本的な性格を「後知恵」と表現した。ある瞬間に起きた出来事の意味は常に、後に続くものとのかかわりの中でしか理解し得ないからである)」。

しかしFreemanは、他方において、「後知恵においてのみ、私がここでナラティヴな反省と呼ぶものを通してのみ、得ることが出来る真実がある」と主張する。のちに振り返るという形でしか、私たちは「本当に起こったこと」が何であるのかを理解できない。私たちは生起中の出来事のただなかにあっては、その物語がどこへ行くのか知らないし、知ることができないからである。「その結果、絶え間のないズレが、つまり、直接的経験と、ナラティヴによる回顧的な変容との間の実存的ギャップが、存在する」。だから私たちは、後から、「時を遡って」その出来事の意味を獲得するしかない。<引用終了>

【解説】
自身の病いの体験の意味は、その体験の只中にいるときには分からないものです。後から振り返って、それを他者に向かって語ろうとするとき、「病いの体験の意味」が理解できます。自分の頭の中で反芻して考えるだけでは「体験の意味」は分からないのでしょうか?もちろん、自身の体験を振り返る過程で沈黙のうちに言葉による解釈に開かれることもある筈です。しかし、他者に自身の体験を語るという行為は「経験」を「言葉による解釈」に発展させる強力な動機付けとなる筈です。だから、T1DM当事者である皆さんが、自身の病いのストーリーを考えるときは、一人でノートに向かうよりも、良き聴き手に聴いてもらい、良い質問をしてもらうことがとても効果的であると言えます。

鈴木氏は「事後的な語り」がもつある種の危険性について触れています。すなわち、事実にさまざまな脚色を加えたバイアスです。悲劇のヒロインとして大袈裟に脚色して語られるストーリーや第3者を意図的に貶めるようなストーリーなどがそれです。病いの語り手は、良き聴き手に向かって語ることで、自身の体験の解釈に関する歪みがないかどうか?確認してもらうと良いかも知れません。また、「体験の意味」は、その後の体験によって、常に新しい解釈に開かれていることも大切なポイントです。厳密に言えば、自身の病いのストーリーは日々更新されているとも言えるからです。

次回は「物語的真実」や「良い物語」について論じてみたいと思います。

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